3.1 脳と心

3.1.1 ヒトは知性を持った動物である

われわれ人間を生物種として見る場合には、通常「ヒト」と書き慣れている。ヒトは、動物のうちのサルの仲間を総称する「霊長類」の一種であるが、一般的には「人間」対「動物」と対比され、「人間は万物の霊長である」とも言われるように、際だった優れた能力である「知性」を持つと見なされる。「知性」とは極めて多義的な概念ではあるが、それはヒトの脳神経の最も高次で複雑な機能の発露であると、とりあえず操作的に定義してみることができるだろう。そうすれば、まずは生物に脳神経が如何に出現して進化し、それに伴ってその最高次の機能がどのように変容して、現在のヒトの知性発現に至ったのかの歴史を振り返れば、ヒトの「知性」の特徴を生物的に記述することができるに違いない。そして、その「知性」を持った生物はやがて文化・文明を創造して、その棲息環境を大きく変容させてゆくことになり、現在のわれわれがある。「知性」を持ったヒトの振る舞いは他の生物とは何が決定的に異なるのか、われわれがこの地球上で「生きている」ということはどういう意味を持っているのか、について科学的に考えてみる。

 

3.1.2 「脳」は体が“動く”ために創られた

脳は、下等動物の原初的神経系に由来する情報処理装置である。生物は神経系を進化させて何を獲得したのだろうか。それが無い生物と比較すれば一目瞭然である。植物は地球上で大繁栄しているが無脳である。植物は代謝し成長するが、動かない。感覚された外界の環境に反応して最適に「動く」のが動物である。摂取すべき食餌があれば接近して捕食し、捕食者が接近すればそこから逃避し、自己の棲息に適した環境を求めて移動する、といった具合である。感覚運動系を最適制御すべく「情報」を記号化し計算する装置として神経系が進化したのである。体が大きく感覚運動系が複雑化すると、より高度な情報処理が要請されるので、その負荷に応ずべく神経系の上位端に中枢としての脳ができた。

このように、単細胞動物から哺乳類に至る動物種の運動の基本は、自らの「移動」という「自動詞的行為」である。動物の運動器官は、身体を効率的に移動させるべく最適化されている。その感覚器官は、運動をスムーズに遂行するための情報を環境から収集すべく最適化されている。神経系はこれらを環境に最適な対応関係で繋いでいる。すなわち、動物の運動は、環境の中に組み込まれ最適化された、一連の「自然現象」の一環である。

ヒト(と霊長類の一部)を除くほとんどの動物種について上記の事情が当てはまる。このように、環境の変化が先ず起こり、それに対応した最適の反応としての動物の行動パターンのなかに、われわれは意志や感情の座としての「心」を感じることは少ない。その身体や行動を擬人化して、彼らに心があるかのように表現することはできるが、脳神経系の作用としての感覚運動制御の範囲内においては、心を想定する必然性は無い。言い換えると、この生物の「自己」は自然の中に溶けていた。

 

3.1.3 まず「手」と「眼」が“進化”した

それでは、ヒトの「知性」の創造に至る進化は、どのように起こったのだろうか。脳神経系がそれを創り出すべく進化したのであろうか。事態はそうではないらしい。まず最初に起こったのは、運動器官と、感覚器官の進化であった。脳神経系はそれに適応すべく、後から進化したのである。

手は前肢の遠位端である。脊椎動物の前肢は、魚類の胸鰭から進化したらしい。胸鰭は推進力と姿勢の制御を司る。脊椎動物が上陸して、両生類、爬虫類と進化しても、前肢は一貫して身体の移動に寄与する。鳥類では翼に変化するが、やはり空中移動を司る器官である。哺乳類でも身体を支え移動することが前肢機能の主体である。その末端である手は、脊椎動物が推進力を産み出すべき環境との接点として適応進化した。例えば、水や泥を掻くため膜を張り、地面を蹴るためかぎ爪をつけ、羽ばたくために羽毛を生やしたりした。これらの動物では、前肢は体の横あるいは下方に付着して、顔より前に出ることは希なため、ほとんどの脊椎動物は手先を見ることはできなかった。つまり、前肢および手の制御は、専ら規定の運動プログラムと体性感覚性フィードバックに頼っていた。

樹上生活者の霊長類が出現すると、枝をたぐり寄せるために四肢が長く伸び、枝を把持するために指は長くなり平爪をつけ、対向する親指を獲得した。空中で枝をうまく掴むためには、その位置と形状を良く観て確かめ、それに合わせて手を伸ばさなければならない。長く伸びた四肢の先端は、こうして常に視界に入るようになった。特に前肢とその末端で器用に動く手指は、顔前の精緻な視運動コントロール下におかれることとなった。

眼も変化して、正確な手の到達と把持運動を助けた。両目が前を向き、両眼視野の重なりが拡大し、奥行き知覚が正確になった。多くの動物種では、両目は左右に分かれて視野を広く確保する方が有利なので、両眼視は一般的でない。例外は、獲物をまず視覚的に捕捉する肉食獣や猛禽類であるが、彼らの狩りは、近くの獲物に前肢を延ばして到達するのではなく、むしろ遠くの獲物に移動運動によって飛びかかる。

進化した霊長類の前肢・手・視覚能力は、さらなる特徴を獲得した。前肢のより自由な回内、回外運動によって、掌を顔に対面させられるようになった。自ら精緻に制御可能な身体部位である手指によって自由に形作られる「空間」が、それを視覚的に精巧に解析することが可能な視覚装置である両眼の直前に出現したのである。かくして、霊長類は中心視野で立体視が一番正確にできるところで精緻に手指を動かす能力を獲得した。これにより、手に集中した精巧な体性感覚フィードバックを視覚的に確認できるようになった。「触覚探索」が可能になり、手は感覚装置にもなった。われわれは、手探りで物を探し、空間を知覚し、それらを視覚情報と照合することができるし、視覚的に知覚した空間を手運動に伴う体性感覚で検証確認することもできる。

 

3.1.4 「心」は物を“動かす”ために想定された

動くという「自動詞的行為」では、身体運動を制御する「主体」としての装置たる脳神経系と、制御対象たる「客体」としての身体運動器官が、動物の身体の中で不可分に統一されている。つまり、脳神経系で行われる情報処理の効果が及ぶ範囲は、基本的には自らの身体の内部に常に一体となって閉じているので、主体と客体を分離して考えるのはむしろ不合理であった。

霊長類が出現し、手が移動運動から解放されて、自己以外の環境中の事物を操作し、その結果を両眼視で詳細に確認できるようになると、脳内神経回路もそれに適応して進化し、事態は変化し始める。動物の身体運動は、物を「動かす」という「他動詞的行為」をも担うようになった。すなわち、動かす「主体」たる身体と、動かされる「客体」たる身体外の事物が物理的に分離したのである。しかし、まだ意志や心を想定する必然性はない。その霊長類は、環境からの直接的要請に従ってそれらを動かしているに過ぎないからである。

様相が一変するのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと、道具の使用を始めたときだったろう。このとき、道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになる。自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなる。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」というものではないか。