3.2 文化と社会 -非遺伝情報の創出-

3.2.1 「文化」はヒトに新たな“進化”をもたらした

自己の脳神経の機能の内に「心」が想定されると、主体は身体の永続性に気づき、次第に自己の概念が確立されてゆく。また、他者の内にも心の存在を想定せざるを得なくなる。さらに、「動かす」対象は事物を超えて、他の主体たる他者にも及ぶようになり、心は相互作用を始める。こうして、心を持った複数の主体は相互に心を認め合い、いわゆる「心の理論」が芽生える。そして、共感、忖度、同情、模倣、教育、などといった心の活動を基盤とした行為を通して、人間性豊かな文化社会が形成され、その社会を通してまた心の作用がより発達した。

このような心の作用は、やがて再帰的に自己をも制御対象として自制心や克己心に基づく精神文明を産み出し、またもう一方では自然を操作対象とした科学技術文明が発展してゆくことになる。このような精神活動を、われわれは現在「知性」と呼んでいるのではなかろうか。われわれの脳が自分自身に対する「メタ自己」の視点を獲得し、時空間内で独立した合理的な、自由意思を備えた自己の相互作用によって、現代の知性は成り立っているのである。

心に宿る自由意志は「主体的」に周囲の環境に対して働きかけるようになった。これまでは、環境からの直接的要請に応じてそれに適応するように動いていた動物は、自らの環境を快適にするためにそれを「目的」的に変化させるようになったのである。ここに、心を持った知性が環境を自らの都合の良いように変化させ、その創られた環境に合わせてまた体と心の在り様が変化する、といった輪廻が形成された。現代文明社会におけるヒトが生息する地球環境を見渡してみると、全くの自然はほとんど見あたらない。われわれは、これらの人工環境に適応すべく変化してきたのである。

物理的な地球環境ばかりではない。ヒトは自分自身も変化させた。手の延長としての道具に始まり、眼の延長としての鏡や望遠鏡を発明し、記憶能力の延長としての書字を発明し、自己の様々な機能を外在化させて、知性によって形作られた「文化」の中に蓄積してきた。もはや、情報や知識は世代を超えて共有され、「教育」によって伝承されるようになったのである。かつては、遺伝子情報の中に蓄積され、身体とともに進化してきた生物が、いまや社会環境との相互作用の中で、新たな進化の形を獲得したのである。

 

3.2.2 「知性」は再び自己を“溶け込ませ”新たな何かを創る

現生人類は進化の最終段階ではなく、未来へ向けて進化発展を続ける途上にある。われわれの(道具を使う)心はどこへ向かうのか。最初の道具は「運動器官」である手の延長だった。次には「感覚器官」の外在化たるカメラや探知機を使いこなした。さらに絵や文字による記憶や、計算機による思考などといった「脳神経」の機能さえも外在化させてしまった。そして今、外在化させた脳神経の機能は、電子通信によってネットワーク化されつつある。そこでは、個々の「主体」の意思は身体から離れ、機能別にネットを介して自律的に相互作用し、千切れた自己の切れ端が仮想社会で共有され融合される。そして操作された外なる自己は、既成事実となって再び内なる自己へ回帰する。個の行為は再びネットワーク現象の一環となる。

これまで、心と自己は物理的な脳と身体を拘束条件として統一されていた。身体を離れ、浮遊する多数の部分的自己は、再び電子社会の中に溶け込んでゆく。「メタ自己」によって自然環境からの独立を獲得した自己は、再び電脳ネットワークという新たな自然環境の中に埋没し個としての独立を失ってゆく。そこでの自己の行為は、働きかける動作や受け身の状態などを包括する「用言的行為」になってゆくだろう。「心」が体を離れた時、それはどこへ向かうのか。科学技術と現代的知性を持った人間の脳と心の集合体は、直接相互作用する脳の集団を操作する主体としての新たな「何か」を創造して、より高次で複雑な脳神経機能の新たな階層を切り開いて行くのであろう。

 

【コラム3】自分と他人(「自己」と他の「自己」)

動物の行動は、直近の環境状況からの当面の要請や、そこから湧き起こる感情などに突き動かされるように、刹那的ではあるがその場に即して最適にかつ最も効果的に発動される。動物の行為にも、「意図や目的」を想定することはできるかもしれないが、それは行為する主体というよりも、むしろ、その場、周囲の環境の中にある。そして発動される「行為の形式」は、与えられるべき状況に即して予め用意されたレパートリーの中から最適解が選択されて自動的に発現すると考えるのが適当に見える。即ち、動物の行動は、目的と行為が分かち難くセットになっており、それを発動する主体は、環境の中で自明に定義されてしまうので、「自己」としてみずから意識する必要はない。

ヒト以前の動物の「自己」はその身体を制御する脳の回路網の中に溶けており、そこから滲みだした部分がさしあたってそこにある「他者」と共鳴していた。ヒトでは、それ自身を自己の中にある「他者」の視点を持って再発見することによって、内省的で継続的な「自己意識」が芽生えたのではないだろうか。高度な人間精神の発露たる文明的行動について再考すると、行為の主体(「自己」あるいは「他者」)の意図、それを発動する原因となる状況と、行為そのものの型式とが、明確に分離して記述可能であることに気づく。言い換えるとヒトの脳には、企画者の趣意書、工程設計図と、その行為を発動すべき状況、それぞれが意義を持って独立別個に存在し得るのである。これは、霊長類の一種が人類へと進化する過程のどこかで獲得されたと考える以外にはない。

そもそも、一体われわれは、幾つの「自己」を持っているのだろうか。感情に突き動かされる行為、「他者」との即時的関係性に依拠する行為、環境からの緊急要請に呼応する行為。これら各種の行為を担う別個の神経系それぞれに、その行為を発動する主体たる「自己」を想定することができる。脳内に分散して表現されていた、各種の自己が、偶発的行為によって、連携し、ネットワークとした全体的な「統一的自己」を産み出したのではないだろうか。翻って、動物では何故この様なネットワークが生まれなかったのだろうか。自然の一部として環境と一体化した動物的「自己」は、その過酷な野生環境を生き延びるのに、統一を図る余裕も必要性も無かったであろう。ところがヒトになって、家族愛により、社会により、安全が保証され、好奇心による冒険を許される中で、内省的な「統一的自己」を産み出す余裕が生まれたのではなかろうか。しかし、この安全な社会は、人間的「自己」の連関の産物でもある。