3.6 健康の確保 -精神-

3.6.1 精神機能の発達と環境の影響

ヒトには、他の動物と同様に、生まれながらにして多くの行動能力が具わっている。その上、ヒトは生まれてから1~2年後には言葉を獲得し始め、幼児期をとおして民族に固有の複雑な言語を話すことができるようになる。この生まれながらに具わった能力を引き出し、発達させていくためには、適切な刺激と環境が必要である。

ヒトを取り巻く環境因子として、物理的環境因子、社会・文化・経済的因子、生物学的因子、さらにはヒトとヒトとの人間関係などがあげられる。これらの環境因子は、ヒトの成長と発達を促すとともに、望ましくない環境因子が長期間持続した場合には、ヒトの発達と健康を阻害する要因となる。

 

3.6.2 ヒトの発達には年令に応じた課題がある

ヒトは誕生の瞬間から外界との関わりの中で生命活動を開始する。生まれたばかりの乳児においても、啼泣することで生物としての欲求を表現し、飢えを満たすために母親の乳首に吸い付き、母親の胸に抱かれることで安心と温もりを求める。これら乳児期における生物としてのヒトの本能的な欲求を満たしていくことが、乳児がヒトに対して信頼を獲得し、環境に対して安心を得ることに役立つ。このような乳児の愛着行動に対する欲求の充足と養育者に対する信頼の獲得は、その後のヒトの発達を支える基盤となる。

幼児期に入って、言葉や運動能力が発達すると、遊びを通して家族以外との関係を持つようになる。生活環境の広がりは、言語機能や運動能力を一層高めるとともに、外界に対する知的関心を広げていく。

学童期において、生活の場は家庭から学校へと広がり、教育によって社会生活に必要な知識と技能を獲得するとともに、仲間との協同作業を通じて集団への参加や社会的協力の意義を自覚し始める。

青年期においては、成長に伴う急速な身体的変化が出現し、社会の中で様々な仲間集団を形成し、同世代との交流の中で、概念的な思考と価値観を形成していく。また、異性との交際が始まり、慣れ親しんだ家族から自立していくのもこの時期の課題である。

成人期においては、労働を通しての社会的参加が求められ、結婚により新たな家族を構成したり、子どもの養育と教育によって次の世代を育成したりしていくことが求められる。

老年期においては、加齢に伴う心身機能の変化や子どもの自立や退職に伴う生活環境の変化が起こり、生活環境の変化が孤独や喪失感を招くことがある。老年期の課題は、孤独や葛藤を乗り越えて新しい生きがいを作りだしていくことにある。

 

3.6.3 発達段階における危機を乗り越えることで心の健康が維持できる

3.6.2で挙げた各年代における発達の課題は普遍的なものであるが、一方では社会との関係の中で様々なストレスに遭遇し、対処の仕方によっては、心の健康に重大な影響を与える危機に陥る。また発達段階における危機のみならず、身近な人との別離や重い病気にかかった時、望まざる退職などの生活状況の変化、あるいは突然の災害や事故に遭遇した時などに、日常の生活に支障をきたすような精神的な異常反応を引き起こすことがある。

児童の虐待は、子どもの生命を危機にさらし、心身に被害を与えるのみでなく、その後の心の発達に大きな影響を残す。思春期・青年期において自分の欲求に見合った社会的集団への参加が得られなかったり、社会の一員としての確信が持てなかったりする場合には、心理的危機に陥り、不登校や反社会的行動が出現することもある。

成人期においては、多くの人は就業や社会的活動に参加し充実した時期を迎えるが、配置転換、転勤、転職、失業等職業上のストレスが大きくなり、家庭においても、出産、子育てなどに生きがいを感じる一方で、育児に対して自信を失い精神的な健康を損なうことがある。

老年期においては、心身の機能の低下に伴い自らの健康不安が増大する。特に独り暮らしで近辺の援助が得られない時や配偶者の死に直面したときには、孤独感がつのり、抑うつ状態が出現しやすい。

これらの各段階の危機に対して、例えば、児童虐待に対しては、子育ての支援センターや虐待防止のネットワークが設けられ、高齢者に対しては、医療・福祉の支援活動が行われ、社会からの孤立を防ぐための社会的な対策と支援が講じられるのが人間の社会である。

しかし人間の発達段階における危機を論じるとき、第二次世界大戦後一貫して続いている我が国における家族構成の変化と家族に対する価値観の変遷、人口構造における少子化と高齢化の問題、子どもを育てるための住宅環境と地域社会とのつながりなど、社会のあり方について考察すべき時期に来ている。

 

3.6.4 精神疾患と社会的サポートの必要性

以上の、人間の発達段階においてストレスから生じる心理的な危機は、生活環境における適切なサポートがあれば乗り切ることは可能である。しかし一方で、青年期以降においては、ストレスの関与のみでは説明できない精神疾患の発病がみられるようになる。

精神疾患については、身体の疾病のように、脳を初めとする臓器を解析することで、その病因を解析することはできない。認知症のように脳の画像診断や病理学的所見によって、その病因が明らかにでき、生物学的研究、特に生化学の分野において、脳内の神経伝達物質の働きが精神疾患の発病に関与していること、ある種の薬物が精神疾患を引き起こすこと等が知られて来たものの、今なお未知の部分が多い。精神疾患の発病については、生物学的要因とともに、ヒトを取り巻く生活環境、社会的葛藤状況の持続、発達のあり方など複合的な要因が関与していると考えられている。

精神疾患の治療については、従来から薬物療法、精神療法、社会復帰活動の有効性が認められてきたが、さらに社会活動への参加を目的として、社会資源の充実が推し進められている。精神疾患の回復において最も大切なことは、地域社会において精神疾患に対する偏見を排除し、温かい目を持ってサポートしていくことである。