4.2 ホモ・サピエンスとしての倫理 -生物種としての倫理-

4.2.1 ヒトが地球環境に与えている衝撃

3.4.3.で述べたような人口の増加とそれに伴う農業生産や工業生産の増加が生物圏全体に大きな衝撃を与えていることは、レイチェル・カーソンの名著”Silent Spring“(1962、邦訳『沈黙の春』)を初めとして、繰り返し危惧され警告されてきた。ヒトが生命圏全体を大きく撹乱していることは、すでに3.4.6や3.4.7で述べたが、ここでもう一度簡単に振り返ってみよう。

肥料のための工業的窒素固定などの人間活動によって、一次生産者に利用可能な固定窒素の全地球における供給量はすでに2倍に増えている。過剰な栄養素の付加は水界生態系を汚染し、富栄養化をもたらしている。化石燃料の使用による酸性雨、農薬を初めとする化学物質は生物学的濃縮によって思いもかけない影響を与え、大気中の二酸化炭素濃度の上昇などによる温暖化、大気中のオゾンの減少もまた生命圏全体に深刻な影響を与えている。

表6は動物の種の重さ(その種の総現存量)を、1999年のデータを基に推定したものである。ナンキョクオキアミは、年により量がかなり変動するが、多い年には人類の重さを越す。これを唯一の例外として、上位はすべてヒトおよび家畜である。最大の現生動物シロナガスクジラも、陸上最大のアフリカゾウも、この値においてはヒトの1%にもならない。この一事からも人間の活動が地球環境にどれだけの影響を与えているか想像に難くない。

地球の温暖化が危惧されて久しい。1997年12月に京都で第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)が開催され、地球温暖化の原因となる二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素などの温室効果ガスの国別の削減目標を決めた京都議定書が議決された。当時は温暖化については疑問の声があり、米国はこの枠組から離脱したが、2007年の気候変動に関する政府間パネルは温暖化が実際に起こっていると断定した。地球の温度が3度から4度上昇すると、すべての地域で穀物の生産性が低下し、海水面の上昇により世界の沿岸湿地の約30%が水没する可能性がある。特にアフリカでは降雨量の減少により農業生産量が半減し、アフリカの貧困と餓えの克服を大きく遅らせるのではないかと危惧されている。

表6 動物種の重量比較

地球環境の悪化を示す指標の一つは、急激な種の絶滅とそれに伴う生物多様性の危機である。生命の歴史を振り返ってみると、化石のデータは5回の大絶滅を示している。中でも、最も激しかったのはペルム紀の最後に起きた大絶滅で、海洋動物の種は95%以上が失われた。(2.2.4参照)実は、現在起こっている絶滅の速度は、この時より二桁から三桁高いと推定されている。その全てがヒトの活動によるわけではないにしても、これは凄まじい現実と言わざるを得ない。

最近、”sustainable”とか、”持続性のある”とかいう言葉を見かけることが多い。光合成と呼吸の組み合わせに見られるように、本来、生物の世界は循環型であり”sustainable”である。例えば生物圏における炭素の循環は、地表に降り注ぐ太陽光の約1%のエネルギーを用いて賄われている光合成産物を、呼吸によって二酸化炭素と水に戻すシステムで、太陽から光が届き、宇宙空間に熱を捨てられる限り続く循環型のシステムである(図9)。しかし、全光合成産物の5%をヒト一種が消費するという現在の状況は、このシステムの崩壊すら招きかねない。

生命というシステムは、その誕生以来現在に至るまでの38~40億年に起こったあらゆる天変地異を乗り越えて連綿と続いてきた。この長い進化の歴史の結果として、この地球には数千万とも数億とも言われる種の生物が存在すると考えられており、それらが直接間接に関わりあって生きているのである。これまでに生物学者によって認識され命名されたものは175万種ほどに過ぎない。大部分の種は未だ認識すらされていないにもかかわらず、凄まじい速度で消えつつある。

図9 生命圏における炭素の循環[1]

空間的にも時間的にも広がる生命のありようの総体を、「生命系」として認識しようという提案は極めて重要である[2]。あらゆる現生生物は生命38億年の歴史を等しく背負っているにもかかわらず、ヒトというただ一種の生物が、これだけ大きなインパクトを生命圏全体に与えている状況は、種として許されるのであろうか。このような意味において、ヒトが一つの種、しかも知性のある種として、生命系に対して負う責任を自覚する必要があるのではないか。この意味での生命「倫理」を真剣に考えねばならない状況に、ヒトは追い込まれているのではないだろうか。ヒトは自身をいみじくもHomo sapiensと自称しているが、人類が真にその名に値するか否かは直面するこれらの難問を解決できるか否かにかかっていよう。

 

[1] 星元紀・松本忠夫・二河成男著、放送大学教材『初歩からの生物学』放送大学教育振興会、2008

[2] 岩槻邦男『生命系-生物多様性の新しい考え-』岩波書店、1999